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広島二日目

今日は被爆の記録を色々と巡る予定。広電(市内を走る路面電車)の1日乗車券も買った。
広島駅のマクドナルドで朝ご飯をして、広電に乗って皆実町六丁目へ。そう、元中国新聞社写真記者の松重美人氏が撮影した広島被爆直後の写真の現場である御幸橋(みゆきばし)からスタートする事にした。京橋川という川にかかる御幸橋は、戦後新たに架け替えられた橋だが、想像していた以上に川幅が広く、橋も長かった。被爆後はこの橋にも多くの被爆者が水死体となって浮かんでいたのかという事がすぐには想像できない。

そのあとはまた広電で北上し、広島日赤原爆病院へ。病院前に保存されている爆風で曲がった窓枠と、ガラスの破片が突き刺さった壁を見る。

再び広電で北上。袋町で下車して、旧日本銀行広島支店と袋町小学校に併設している袋町小学校平和資料館を見学した。袋町小学校(袋町国民学校)は爆心地から500メートルしか離れていなかったが、鉄筋コンクリートの建物であったために、崩れずにその形を留めた。その結果、被爆直後は救護所として使用され、多くの被爆者が運び込まれた。そして、行方不明となった血縁者、知人の行方を探す人々がここを訪れ、壁にチョークで伝言を書き残していった。戦後、壁には漆喰が上塗りされて壁に書かれた伝言は姿を消したが、数十年が過ぎて、校舎の解体が始まった時にはがれ落ちた漆喰の下から、当時の伝言が多数現れた。この伝言を誰が、誰を捜すために、何を伝えるために書き残したのか?という詳細は
「ヒロシマー壁に残された伝言(井上恭介著 集英社新書)」に詳しい。
ヒロシマ ―壁に残された伝言 (集英社新書)
そもそも、僕が30年前に小学校の修学旅行で訪れた広島の事を思い出し、もう一度訪れてみようと考えるようになったのは2年前にこの本を古書店で購入して読んだからだった。30年前はまだ見る事ができなかった(伝言が再発見されていなかった)伝言をこの目で見てみたかった。その思いが叶えられたのは感慨深かった。
再び北上し、爆心地として知られる島外科を見る。

そのまま徒歩で原爆ドーム前に出た。この辺りまでくると修学旅行の学生の集団や、外国人の集団等が多く目につく様になってきた。
間近に原爆ドームを見た。
ここで、正午が近くなったので、昼食をとる事にした。平和記念公園が目の前だが、敢えて先に昼食をとる事にした。

昼食が終わった後、再び原爆ドームの北側に戻り、太田川にかかるT字型をした相生橋を歩き、そのTの縦棒にあたる部分から平和記念公園に入った。
わざわざ相生橋を歩いたのは、原爆を投下したB29:エノラ・ゲイ号がこのT字型の風変わりな橋を原爆投下目標とした事を話すためだった。ちょっと距離のある相生橋の上から見る方が、原爆ドーム全体がよく見える。さっき、間近に見た原爆ドームよりも川を挟んでみる原爆ドームの方がなんとなく記憶にある原爆ドームの姿によく似ている。

今日、これまでは大樹にとっては、歴史の勉強の延長みたいな感じで、今ひとつピンと来なかったのかもしれない。
しかし、平和記念公園の中にある禎子の像を見たところで、大樹は学校の教科書で知っている「物語」に遭遇して、ちょっとこれまでとは違って、「知ってる」という反応に変わった。
広島平和記念資料館、所謂「原爆資料館」は目の前だ。僕は朝からここに来るまで、大樹に見せたもの一つ一つについて、自分がここ2年くらいの間に調べた事などを元に色々と説明をしてきた。でも、そろそろ僕の説明など不要な場所がやってくる。僕は大樹にだいたい、以下のような事を伝えた。
これから見るものについてはちょっとショックを受けるかもしれない。気持ち悪いと感じたり、酷いと感じたりするかもしれない。ショックを受けるかもしれない。そういう場合、(大樹はちょっとおしゃべりだから)パパに対して「ひどいね」とか、「かわいそうだね」とか感想を伝えようとするかもしれないけれど、そう感じたりする事は当たり前だから敢えて言わなくていい、伝えなくていい、それよりも黙って最後までじっくりとここに展示されているものを見てほしい。
たしか、資料館に入ったのは2時くらいで、出てきたのは4時くらいだったと思う。大樹は入館の時に借りた音声ガイドを全て聞いたみたいだった。
30年前とは展示内容が変わっていたりすると思うから、想像だが、昔に比べると被爆の被害の記録はちょっと少なくなったような印象を受ける。ただ、それでも十分にショッキングである事に変わりはないが。また、昔は原爆投下に至る前の戦争の経緯や、原爆開発に関する資料の展示も無かったと思うが、これはわかりやすくまとめられていて良かったと思う。考えてみると、原爆に関しては未だに米国の機密が解除されていない資料もあるくらいで、僕が前回訪れた30年前の時点では、まだまだわかっていなかった事などが沢山あったのだ。それがちゃんと取り入れられて、歴史の流れの中で原爆を捉えていることはよかったと思う。
原爆資料館を出ると陽が傾き始めていた。これから広島駅に戻って帰路につかなくてはならない。資料館から南下して左に折れると見えてくるのは平和大橋だ。

平和大橋にはもうひとつ西平和大橋というのがあり、どちらも彫刻家イサム・ノグチの設計によるものだそうだ。西平和大橋は「死」を平和大橋は「生」を表しているという。実は平和記念公園の来たから入ったのは、資料館を見た後にそのまま南下してこの平和大橋を渡る事で広島旅行の終わりとしたかったからだ。広島市は市内を大きな六つの川が流れる、川と橋の町と言われている。被爆の記録を読んでみるといい。必ずと言っていいほど、水を求めて川の方向に向かって避難する話、川に多くの避難者(死者)が浮いている話、川を船や泳いで渡り、その途中で同行者と生き別れになる話が多数出てくる。被爆においても広島は川と橋の町なのだ。
僕は広島市内を巡る計画を立てる時に、あの御幸橋から始めなければならないと思っていた。
広島平和記念資料館に展示されている松重美人氏による御幸橋の写真
そんな「破壊」の橋から始めたのだから、最後は「創造」に繋がる橋で終わりにするのがいいと考えたのだ。
一日、よく歩いた。大樹も頑張ってついて来てくれた。彼がこれを将来どう考えるかは彼に任せた。
これで僕が計画した大樹の修学旅行は終わった。