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ポーランド旅行(アウシュビッツ見学総括)

7月30日から8月6日まで息子二人を連れてポーランドに行ってきました。他にも大学の後輩の女性とそのお母さんも一緒です。
現地では大学生当時、うちの日本史研究室にワルシャワ大学から留学してきていたアンナさん(我々は「アンカ」と呼んでいた)と合流して、通訳やら観光ガイドやらをお願いしてしまいました。

今回のポーランド旅行は大学の研究室のミニ同窓会という意味も当然ありますが、もうひとつの目的として、息子たちに”アウシュビッツ強制収容所”を見せたいという事もありました。
元々は長男が小学校を卒業したとき(5年ほど前です)、その時には修学旅行が無かったので、卒業から中学入学までの春休み期間に、1泊2日で長男を広島に連れていった事がキッカケです。
なぜ広島だったのか?といえば、それは僕の小学校の修学旅行が広島だったからです。僕自身は高校の修学旅行で長崎にも行っていて、広島と長崎の両方の原爆資料館を見学しています。
広島の原爆資料館を見た時のショックは僕の中に何かしこりのようなものを残したようです。長男の修学旅行を企画しようと考えた時にその目的地としてすぐに浮かんできたのは広島でした。

では、広島とアウシュビッツはどうつながるのか?

実は原爆とナチスは因縁とも言うべき関係があります。

第2次世界大戦前、科学の世界の中心はヨーロッパでした。相対性理論不確定性原理も、放射性物質の研究等も欧州が中心になって進んでいました。ドイツもその科学の中心において大きな貢献をしていました。例えば、原爆とは原子が核分裂反応を起こす際の巨大なエネルギーを利用した爆弾ですが、この「核分裂反応」を最初に発見したのはオットー・ハーンというドイツの化学者です。彼はその功績によってノーベル化学賞を受賞しています。
ところで、ナチスドイツが政権を取り、ユダヤ人に対する迫害が始まると、ドイツやその周辺地域からユダヤ系の学者が多数避難し始めます。アインシュタインがアメリカに移住したのは有名な話です。先ほど話しに出たオットー・ハーンにはリーゼ・マイトナーという女性の共同研究者がおり、「核分裂反応」を見つけた功績の多くはこのリーゼ・マイトナーという女性の働きに依るところが大きいのですが、彼女がユダヤ系であったために、ドイツを離れなければなりませんでしたし、ハーンはそのために発表論文から彼女の名前を削除したと言われています。(そのためにマイトナーはノーベル賞を受賞していません)
いずれにしても、この様にドイツでナチスドイツがユダヤ人迫害を始めたために、ドイツから主にユダヤ系の知識の流失が起きた訳ですが、それまでは科学の中心はヨーロッパ、しかもドイツの力は並々ならぬものがあったのでした。

アメリカが「マンハッタン計画」という名前で原爆開発を始めたキッカケはアインシュタインが当時の大統領のフランクリン・D・ルーズベルトに原爆開発を促す手紙を書いたことだと言われています。(正確には手紙を書いたのはレオ・シラードというユダヤ系の物理学者で、彼はアインシュタインはシラードが書いた進言の手紙に署名をしただけでした。)
その進言の背景としては、以下のようなものがありました。
核分裂の理論が明らかになったことでそれを利用した兵器=原爆の開発が現実味を帯びてきていること。そして、ナチスドイツは必ず原爆開発に着手するであろうということ。反ナチスの立場にあるものとしては、ナチスが原爆を開発する前にこれを開発し、対抗する必要がある、というものです。
この進言を受けて、アメリカの原爆開発プロジェクト=「マンハッタン計画」が動き始めるわけですが、この計画にはナチスによって祖国を追われたユダヤ系の科学者が多く関わっていました。また、ユダヤ系でなくても、打倒ナチスドイツのために多くの科学者がナチスよりも早く、原爆を開発しなければならないと考えていたのです。
言うなれば、マンハッタン計画が始まった時のゴールは、原爆を開発して、それをドイツに投下して、ナチスを降服させる(実際に投下はしないまでも、原爆を持つことによって戦局を圧倒的優位に持っていく)ことにあったのです。
実際に、第二次大戦末期、ナチスドイツが降伏した時、まだ原爆は完成していませんでしたが、ナチスが降服したのだから、原爆も不要になった、開発を中止しようという意見もあったようです。
ところが、マンハッタン計画は中止できない理由がありました。マンハッタン計画は、極秘の新兵器開発計画でした。計画そのものはほんの一部の人々しか知らず、ルーズベルトの後任であるトルーマン大統領も大統領になるまで、マンハッタン計画の存在を知らなかったと言われています。しかし、一方でこの計画には10億ドル以上の資金が投入されていました。それだけの多額の資金を投入した計画を収穫のないままに中止することなど出来なかったのです。
「投資効果」がどういうものであったかは、ここで書くよりも広島、長崎に実際に行かれて、見てもらうほうがいいかと思います。

さて、こうして見てきたように、ナチスドイツがユダヤ人を迫害したために、知識の流失が起こり。ナチスドイツの脅威があまりにも大きかったために原爆開発が開始されました。そして、皮肉にもそのナチスドイツが原爆の完成を待たずして降服したために広島と長崎に原爆が投下されたという事になります。
おそらく、原爆開発に協力したユダヤ系の科学者の人々の中には、迫害され、収容所に連れ去られて帰らぬ人となった同胞の復讐の意味で、原爆を開発した人もいたと思います。人間性を無視したナチスドイツの所業に対する復讐が、人間性を無視した核兵器であったというのもなんとも皮肉な話です。

実は長男を広島に連れて行くにあたっては1年間の準備期間がありました。僕はその1年間の間に図書館でヒロシマナガサキの被害や原爆開発に関する本を片っ端から読みました。それは、広島で単に資料館に連れていくだけでなく、街中に残る原爆の爪痕も見せたいという事と、そこで何が起きたのかのかについても話し聞かせたいと考えたからです。
ポーランド旅行を具体的に企画し始めたのは去年の暮れあたりからですが、今になって思い返してみると、先の広島旅行の企画段階で既に次はアウシュビッツに連れて行く計画が芽生え始めていた気がしないでもありません。

既に帰国して1週間が経ちました。でも、まだ旅行の余韻が残っています。アウシュビッツ強制収容所が予想通り強烈であったこともありますが、ポーランド(ワルシャワクラクフの街)が予想以上に素晴らしい街で、アンカの気遣いもとても行き届いていて、これまでで一番の旅行だったという事が一番の原因でしょう。
次は、ワルシャワクラクフについて、もっと楽しい思い出について語れたらいいなと思います。