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ソーシャル・ネットワークを観た

ソーシャル・ネットワーク はザッカーバーグに感情移入できないように作られているというのが一般的な意見らしいけれど、僕にはそんなことなかった。映画のフェイスブックは訴訟問題になる元共同経営者のサベリン等からの話がベースになっているらしい。映画は訴訟自体はザッカーバーグが和解する(敗れる)事で終わっているが、決してザッカーバーグを卑怯な人間としては描いていない。
僕はザッカーバーグサイドの人々にインタビューして書かれた「フェイスブック 若き天才の野望」を数日前から読み始めていたので、映画を見ていてもなお一層ザッカーバーグ側に立ってしまう。
それに一日中モニターとキーボードの前に座って、食事も忘れて何かいいアイデアが思いつくと夢中でコードを書くというのは、10年くらい前には僕もやっていたことだ。そういう点でも僕はサベリンに「何やってんだよ」と言いたくなるし、勿論ウィンクルボス兄弟に対しては「思いつきは形にならなければ意味が無い。」と行ってやりたい。それにしても、ハーバードにも通おうかという人間が「学生倫理規定」なるものに反したと学長に申し入れする場面は「小学生か?」と思ってしまった。
もう一つこの映画は「設計者・実装者」と「経営者」の対比の描いていると思う。「設計者・実装者」はザッカーバーグであり、実際に多くのプログラムを書いたと言われる寮友のモスコヴィッツ(映画にはちょっとしか出てこない)だ。「経営者」はサベリンでありウィンクルボスだ。
経営者はアイデアを出したというが、アイデアとは大抵の場合「雰囲気」でしかない。例えば木彫りの仏像を作るとする。「アイデア」とは丸太を目の前にして頭の中で空想している完成図だ。あんな風にしたい、こんな風にしたいと思っていてもいざノミと槌を持って彫り出してみると、木に節があったり、年輪の幅に差があったりして、思ったようには彫れない。だから、ノミと槌を投げ捨てて、誰か出来る人に任せてしまう。仏像の完成形の雰囲気を口で伝えるだけで。
「設計者・実装者」は実際に自分で彫ることから逃げない。彼らでも自分の思い描いたとおりに彫り進めるとは限らない。実際にやってみると思わぬ障害にぶつかったり、思ったとおりに作ったと思っても、なんとなく違っていて、思ったほど素敵じゃない事などしょっちゅう経験しているからだ。
サベリンが広告を出そうと提案して、ザッカーバーグが「それはクールではない」、「まだそういう段階じゃない」といって断るシーンがあるが、あれはまさにその瞬間だ。口しか出せないサベリンは自分の空想の中のFacebookには広告があってもおかしくない(そうしないと資金が得られない)と思っているが、実際に作って動かしているザッカーバーグはそれが実際の形あるFacebookには似合わないと知っているという事だ。
勿論、この経営者と設計者を兼ねている人物もいる。ビル・ゲイツは実装者でありながら経営者でもあった。彼は経営者としてビジョン(曖昧な姿)を語り、それを形あるものにする努力もした(大抵、言っていたことと大きく違うけど)。
スティーブ・ジョブスは経営者だ。しかし、彼は自分で仏像が彫れないものの、仏師が仕上げる仏像にトコトンダメ出しをする。そして、自分の思い描いた空想の仏像の細部を実物をみて補正しながら、ほんとうに自分が気に入るものになるまで何回でも作り直させるのだ。
ウィンクルボスは実際にFacebookにアカウントを持っていたのかどうか僕は知らないが、彼は自分のアイデアを盗まれたというのなら、とことんまでFacebookを使いこなして、そのどのくらいのディテールまで自分のアイデアと一致していたかを調べるべきだったろう。少なくとも映画の中で彼らがFacebookそのものを見ていたように見えるのはその立ち上げの頃だけのようだ。
サベリンはFacebookの自分のプロフィールの変え方も知らなかった。
とにかく、最近リタイア気味のIT男として、僕はザッカーバーグの肩を持つ。

ところで、この映画について知ったちょっとビックリなこと。
1)ザッカーバーグを他人の感情を理解しない冷たい人間として描いているのは、そもそも映画のキャラクター設定として彼をアスペルガー症候群の典型例として描くことにしたらしいからだ。
2)ウィンクルボスの俳優は双子ではない。体格が似ている俳優を二人(勿論他人)を配して、片方の俳優の顔をCGでもう一人の俳優の顔に合成しているらしい。言われるまで全然わからんかったぞ。

このビックリネタも含め、映画を見た人には町山智浩氏のこの映画に関するPodcastがおすすめです。
http://enterjam.com/?cid=16:Enter Jam 町山智浩のアメリカ映画特電