告白
そう、実感がない。
10月の半ばに親父が死んだ。
そもそも20年以上も透析を続けていたりして、身体に色々問題は抱えていたが、そこそこ元気だった親父が死んだ。
その日の朝まで、日課になっていたらしい散歩もして、透析も行ったらしく、特に普段と変わりなかったらしいのに、唐突に夜に死んだ。
お袋から電話が来たのは夜の7時3分前。
なぜそこまで覚えているかというと、7時から友だちとzoom飲み会をすることになっていて、酒のつまみ代わりのピザトーストを焼きながら、おっとあと3分しかないじゃないかと思っていたところに電話が来て、電話をとったカミさんが、顔面蒼白で「お父さん、亡くなったって!」と叫んだからだ。
そういえばあのピザトーストどうしたっけ?
それから慌てて支度をして、カミさんに運転してもらって、実家に着いたのは夜中の3時だった。
親父は既に安らかに眠っていた。
そこからは朝を迎えて通夜の準備、その翌日に葬儀で、焼き場に行って、骨になった親父を迎えに行って。
あっというまにこの週末は四十九日だ。
しかし、それでも実感がないのだ。
ただ、よく言う、「まだ親父が生きて、電話とかしてきそうな」とかそういうのじゃない。
親父は死んだ。冷たくなっている姿も見たし、肌に触れもした。通夜の夜はその側で眠った。
死亡届も見たし、親父名義の銀行口座、携帯電話の解約、お袋が親父名義の土地を相続するために必要な戸籍謄本を取るための手続きとか、諸々の事務手続きの段取りもカミさんと一緒にやった。
でも。
でも、なんだろう。
その後の日常に何一つ変化はないのだ。
止まれ。僕と親父の仲は全く問題はなかったよ。普通の親子だったと思う。親父は偉い人だったなぁと思う事だってあったんだよ。
ただ何事もなかったかのように電車は行き来し、僕は通勤し、休みの日は少し遅くまで眠る。本を読み、映画を見たり、台所に立ったり、ほぼ変化がない。
その、どこかの瞬間に親父を思い出すこととか、それで亡くなった事に涙を流すとか、そういう事がない。
今年の初め、小学校の同級生が急に亡くなった事を知らされた時の方がショックだったし、しばらくすると訳もなく涙が流れてきたのにね。
お父さん、僕は冷たい息子なのかねぇ。
わたしと原爆
原爆投下「必要なかった」
歴史家らが米紙に寄稿
https://this.kiji.is/663863003436237921
スミソニアン博物館で企画された原爆展が中止になった1995年から25年。
世代が変わる事で世論も変わるが、当時を知る語り部たちもまた亡くなっていく。
個人的には必要なかったからといっても、核兵器は誰かが作り、落としただろうと思います。
アインシュタインは直接原爆開発にはタッチしませんでしたが、彼が E=mc2(2乗)という真実を見つけた時に、核兵器は開発される運命にあり、創ったものは試さないではいられない人間の性が、投下のボタンを押させたに違いないと考えています。
誤解を恐れずに言えば、ヒロシマ、ナガサキがあったからこそ、その後の核兵器の使用にブレーキもかかった。初期の段階の核兵器だったからこそ、あの凄まじさで終わる事ができた。
歴史に「もし」はありませんが、もし、トリニティ実験だけで終戦を迎えていたら、更に強力な原爆、水爆へと開発が進み、もっと強力な兵器となって、朝鮮戦争やベトナム戦争、もしくはもっと別の報復やテロにおいて使用されてしまったのではないかと想像します。
勿論日本という国は宣戦布告をした国であり、無謀な戦略で敗れた国です。
しかしまた、大戦における唯一の被爆国でもあります。原爆の恐ろしさを、悲惨さを、何十万もの命という代償を払って、身をもって知った唯一の国です。
非核を叫ぶと「お花畑だ」と揶揄される事もあるようです。
では、そういう風にいう人も含め、私自身も含め、全ての日本人に、この日が来るたびに自問してほしい。
被爆国だからできることは何なのか?
被爆国にしかできないことは何なのか?
わたしは馬鹿です。
私は馬鹿です。
政府がやることを批判することが何故ネガティブなのか教えてくください。
上が言うことに違和感を感じても、やってくださるのだから、ありがたいと受けなさいと言うことが何故ポジティブなのか教えてください。
一つのことに対して、何故賛成するかを話し、何故反対するかを話し、対話することをしないで、何故ワンチームになれるのか教えてください。
仮に効果のある対策だったとしても、何故そうするのかを説明せず、強調せず、質問も受け付けず、それで国という大きな組織を牽引するリーダーとしてふさわしいと思う訳を教えてください。
団結しなければならない、と言いながら、自分と違う意見の人を愚かだと言い捨てる理由を教えてください。
何故他人を愚かだと言い切るほどにあなた自身が優れていると考える理由を教えてください。
NYの試練
https://www.nytimes.com/2020/03/18/opinion/nyc-poor-coronavirus.html
ホームレスなどの貧困者の多い大都市ニューヨークの状況。
今回のことで、思うことは生活習慣や社会環境の違いによって対策やその効果にも差が出るだろうということ。
西洋の人々はスキンシップが多い。握手、抱擁、キス、、、それらが感染を広めてしまう事にもつながるのではないか。
満員電車などの密集する密閉空間での長時間移動が当たり前の都市部と、マイカー勤務が多い地方でも、状態は異なってくるだろう。
殊に感染を抑制するという事について、他国と自国が取り組みが違うからと言って対応の差を責めることはできない。
日本がすごい、というのは構わないが、韓国だって、中国だってすごいよ。中国は特に春節という国を挙げての大移動の時に重なったのに、なんとか抑え込みつつある。
日本がお盆やお正月に当たらなかったのは幸運だったと思う。
今の思い
3/18時点での思いを書き留めておきます。
休校をした判断が素晴らしい英断だったという風潮が生まれつつあります。しかし、一方であれは緊急的な対策として何か行動を起こす必要があったからであって、これをやれば大丈夫という判断があったからではありません。簡単に言うと「たまたま」です。
ある程度効果を生んでいることは否定しません。検査数が少ないので感染者数では判断できませんが、死亡者数などは抑制されています。しかし、まだよく様子を見る必要もあると思われます。
最初に休校の「要請」が出された時、それに強制力がないとは感じませんでした。国の長から「要請」されて、言うこと聞かない方が勇気が要ります。しかし、私の周りで見る限り、この方針を支持する人の多くは、有事の時なのだから協力するべきという感じで、強制もやむなしという感じでした。その後、要請なので決めるのは地方自治体という事が分かってくると、強制ではなく、現場の判断を認める「要請」にした事を評価する動きがあったと思います。自分は内心では「さっきまでは何がなんでも従えって感じで解釈してたくせに」と感じました。
やはり気になるのは休校にする一方で、保育園や学童を継続して良いものとし、要請の枠から外した事です。
これは働く人たちの事情を考えた判断とされていますが、私がいうまでもなく、休校が感染の広がりを抑制するためのものでありながら、保育園や、学童を許しては意味がないのでは?という事です。これについては色々と「医学的?」「感染学的?」に理由づけする人がいますが、はっきりしていません。
そもそも「エビデンス」がないからどういう対応が適切なのかわからないと言われている中で、保育園と学童を許す理由だけ説明できるわけがありません。
むしろ経済的影響を考慮するなら、自営業、、フリーランスといった人たちを根本的に救済する策を示すできでしょう。
問題の根本は「何をしたか?」ではなく、「なぜするか?」の説明がほとんどされていないことにあるからだと思います。
いや、説明はされてるつもりでしょうが非常に曖昧というか、理由の説明ではなくて、思いの説明にしかなっていなくて、一部の人しか納得させられていないからだと考えます。
それでも協力せよ言われ、理由の説明を求めると「今はそんな時ではない」と言われる。
いや、今だからこそ質疑をしっかりして、毎週、いや毎日でも見直せる部分は見直して、感染を下げたいのですけど、なんで皆さんそういう考えにならないの?
勿論、エビデンスがない状態での手探り状態での対応だから、あまり深い話をしても国民を混乱させるだけという判断もあるかもしれません。
しかしそれは台本があると思われる質疑を放送することではないはず。もし前述のように考えるなら質問を許さず退席すればいいはず。
少なくとも、官邸に帰るだけなのに、予定があるからと言って質問を打ち切る「演出」が必要だとは思わない。
「悪夢」だそうですが、民主党政権時代、3.11で原発で緊急事態が起きていたとき、見直すべき点が多くあったのは当然としても、当時の政府は説明しようとしてました。会見もたくさん行われました。
頻繁に状況を伝えようとする枝野氏に対して「枝野寝ろ」というツイートが多く発せられた。
それくらいのこと誰かしてもいいんじやないの?
質問をする事が悪いことのように言われる事が理解できない。
その上急にウイルスを克服すること=オリンピックを完全な形で開催すること と言われてもなー。
有朋自遠方来 不亦楽乎
木曜日。仕事終わりの夜。カミさんと二人で外食してたら、メッセンジャーで、小学校の同級生の訃報を聞いた。急性心筋梗塞。
彼は小学生の頃からガタイがデカくて、小人の定期で駅の改札通ろうとして、高校生と間違われて止められた、くらいのやつだった。
医者なのに、なんで早死にするんだろな。
有朋自遠方来 不亦楽乎(トモアリ エンポウヨリキタル マタ タノシカラズヤ)
去年の春、学会があるから上京するって連絡があって、駒形どぜうで、どぜう食べて、なまず食べて、新宿ゴールデン街行きたいて言うから、新宿に移動して、、、そのくせ、そんなに飲まないママ、ニコニコするばっかりで。
なんで急に連絡してきたかな。
なんで急に逝くんかな。
人が死ぬ時には走馬灯のように人生を思い出すらしい。おまえの訃報を聞いたら、そんな思い出が次々と思い出されて、こっちの頭の中で走馬灯が回り始めた。逆やん。
この数年、同級生同士でちょっと揉め事があったみたいで、頑なになっているように見える部分もあって、なんとかその固さを緩める方法はないもんかなぁと思ってたのに。
訃報を聞いたときは、唐突過ぎて涙も出てこんかったよ。
言葉も出てこんかったよ。
カミさんと食事が終わって、電車で帰ってきて、酒で少し火照った身体を風に晒しながら、駅前の商店街を歩いていたら、ちょっとだけ泣けてきたよ。
そんな商店街で泣くなんて、恥ずかしいから、ほんのちょっとだけどな。
有朋自遠方来 不亦楽乎(トモアリ エンポウヨリキタル マタ タノシカラズヤ)