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次男の中学受験終了

次男の中学受験が終了した。受けた学校は四校。一校は長男の通っている学校で、そこが第一志望。他は次点という事になる。
試験を受けた回数は7回。3回は次点の三校の学校で、こちらは一回受けて合格の通知を頂いた。(勿論、そううまく行くとは限らないので、願書としてはもっと多い回数受けられるようにしていた) 残りの4回はすべて第一志望校の試験で、予定されていたすべての回を受験した事になる。
実は長男が受験した3年前より学校自体の人気は上がっていて、合格ラインも上がっていた。だから、次男の今の成績では厳しい結果になるのではないかという事はそれなりに予想していた。しかし、去年の末くらいまでは最後の追い込みで状況も変わるかもしれないと思っていた。
次男は頑張った。でも、追い込みきれなかった。確かに、塾の算数の先生と相性があわなくて、熱があるといって最後の方は算数の時間がある日は塾を休んだりした。でも、他の日はちゃんと通っていた。彼の中でいろんな葛藤が有ったことは、傍で見ていればわかっていた。
第一志望校の二回目の試験が終わった時、結果は夜までわからなかったが、本人は自分の手応えでダメだったと感じていて、もうダメだと、受けても合格なんてできないと泣いた。翌日は試験がなかったので、元々の予定では仕事に行く予定(1、2回目の試験は二日連続の休暇をとって付き添った)だったが、予定を変更して休みをとり、一日次男の勉強を見てやった。
予定を変更した関係で、職場に迷惑をかけてしまったので、その後の3、4回の試験の付き添いはカミさんに任せて出勤した。3、4回目はどちらも午前中に試験があるので、夕方にはネット上で合格者が発表される。合格発表は帰り支度をしながら会社で確認した。
結果としては3、4回目共に次男は一歩届かなかった。
それは、それで、とても残念だ。しかし、次男はその他の学校には合格している。これはこれでとても立派なこと。会社から横浜に直行し、そこで家族と合流して、昨夜の夕食は次男の希望通り、回転寿司で受験お疲れ&合格お祝いの寿司パーティになった。

僕自身はもう三十年も前に中学受験をした。正直な話、日本でもトップの有名進学校を受験したので、小学生5,6年の時の勉強量は長男や次男の比ではない。自分の人生の中で考えても、小学生の時の勉強の大変さを思えば、その後の大学受験や卒業論文の方が楽だったと思えるほどだ。
その学校は1回しか試験がなかった。次点の学校の試験日程はその後に予定されていたので、最初に受ける試験が第一志望校であり、一発勝負だった。幸いにも僕は合格したが、逆に次男のように(長男もそうだったが)不合格になって、また次の試験に向けて気持ちを切り替えなければならないという経験はしなかった。次点の学校に合格したからと言っても慢心せず、次の試験にむけて緊張感を保つという経験はしなかった。
だから、ある意味で、長男や次男はこの年頃の僕にはできない経験をし、結果はどうであれ、それを乗り切ったのだと思う。

受験は結果が全てではなく、「その結果をどう受け止めるか」に意味がある。夢が叶って有頂天になるも、挫折を味わって捲土重来を期するも、そこからがまた始まりになる。分岐点に来て、思った方向とは別の方向に曲がることになってしまったが、曲がった方向にも道はある。その道を何処に繋げていくかは、もう子供たちが決めることだ。そして、何度分岐点を過ぎようとも、諦めない限り、次の分岐点にたどり着くことができる。

中学受験で挫折せずに済んだ僕はその有名進学校に進んだが、すぐに成績は光の全く届かない地の底に沈み、高校卒業まで浮上することはなかった。当然ながら志望の大学になど合格できるはずも無く、僕は二浪までする事になる。僕は分岐点に来て、志望校という方向に曲がることができなかったのだ。
二浪が決まった時、母親の知り合いの書道家の人が僕に一枚の色紙をくれた。浪人生活の励みになるようにとの事だったと思う。当時はそれほど印象にも残らず、今ではその色紙も紛失してしまったが、そこに書かれていた言葉を僕はその後、今日に到るまで、いろんな場面で思い起こすことになった。その色紙にはこう書いてあった。

徹 −人間のやることは最後の最後までわからない−

二浪して僕はようやく現役時代から受け続けた大学に合格した。(現役時代の模擬試験では合格率5%だった)
今さっき、曲がったこの道を、何処に繋げていくかは自分次第なのだ。