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優しさの総退却

僕は大抵臆病な方だが、好奇心というか、でしゃばりなところもあって、でしゃばりが時々臆病に勝ってしまうことがある。
ここ何回かここに書いている教壇に立っている事も、その好奇心が勝った結果だ。
そういう時は大抵後悔せずに済むことがほとんどだが、反省することはある。好奇心に任せてやってはみたものの、自分の力の至らなさを感じて、自分以外の人がやった方が良かったんじゃないかとか、そういうネガティブ・シンキングに陥るのだ。
たしか、あれは僕がウダツの上がらない高校生をしていた頃だった。
(勉強もスポーツもダメで、社交性も無いという本当にウダツの上がらない高校生だった)
「赤頭巾ちゃん気をつけて」という小説で庄司薫という作家に出会って、すごく感動して、別の作品(小説ではなく、半自伝的エッセイ?)の「狼なんかこわくない」を読んで、また頭をガーンと殴られたような感動を得たというか、たぶんその後の自分の生き方、感じ方が、バイクでヘアピンカーブを曲がるようにググーッと方向を変えた事があった。
その作品の中で出てくるのが「優しさの総退却」というフレーズだ。簡単に言うと、人は他人に対して思いやりを持ちたくて、優しくあろうとして、ついつい安易に助けの手を伸ばそうとするが、人ひとりを、責任をもって支援するというのはとても大変なことだ。しかし、人は「優しい自分」になる誘惑に勝てなくて、最期まで面倒は見切れないのに中途半端な優しさや、親切を行ってしまう。また、それによって人を傷つけたり、自分も傷ついたりする。しかし、それは自分自身が未熟なだけであって、一人前の人間になるためには、敢えてその「優しさ」を引っ込めてじっと我慢(これが「優しさの総退却」)し、完璧な優しさを実行できる程に強く、賢くなれるまでただ傍観しなければならない・・・といった話だ。
作家の庄司薫氏は東大生だった頃に安保闘争があり、学生運動の高まりと、その挫折を横目で見ながら、その中で奮闘する同時代の若者たちへのメッセージとして書かれたものだったろうが、20年を経てそれは僕の心を打ったのだ。
この高校生の時に買った中公文庫の文庫本は、幾分紙が日焼けして茶色くなっているが、今でも僕の家の本棚の中にある。
僕が好奇心のでしゃばりで、行動に出たあとのネガティブ・シンキングの中で、次の一歩を考えるために思い出すのがこの「優しさの総退却」になる。いわば、もう一度戦場に戻るために、もう一度、一大攻勢をかけるために、一旦は退却をして、自分の地力を鍛え直すのだ。
2009年の二学期から、毎学期教壇に立ち、一年がたった。失敗したつもりはないけれど、もっとこうしたい、ああした方がいいという欲だけが出てきて、力不足でそうできていない。そういう状態を打破するために、次の学期は講座を持たないことにした。
しかし、これは、もう一度教壇に立ってみたい、立つための総退却に他ならない。