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食事を作るということ

泣きながら食事をした事ってあります?

僕はたぶんあった気がしますがよく覚えていません。例えば、辛いことがあったとして、泣いていたとしても、食事を作っていると、泣いていられなくなるんですよね。別に炊事が好きだからとかではなく、早く炒めないと焦げちゃうとか、キャベツを千切りする時に気をつけないと指を切ってしまうとか。

その日常という避けられない大波に飲み込まれると泣いてる場合じゃないみたいな。

「食」って、生きるうえでの根源的なもので、誰も食べずには生きられない。

大失恋をしても、大事なペットの死に向き合っても、憧れの大スタアと奇跡の対面をして心が打ち震えていても、食と排泄だけは否応なくやらなきゃいけない。

 

高校生くらいだったか、少女漫画で くらもちふさこ 先生の 「いつもポケットにショパン」 というのがあって、僕はこの漫画が大好きでした。

世界的なピアニストを母に持ち、自分もピアニストを目指す女子高生 麻子が主人公です。この母娘は反目してるというか、麻子が偉大すぎる母に劣等感を抱いていて、うまく接しられないという設定ですが、本人は母親は娘である自分に期待をしていない(才能がないから)と思い込んでいます。

そんな時、あるコンクール(だったと思う)の審査員をした母がインタビューを受けて、聴いた演奏にちょっと自然なリズム感が足りないみたいな事をいうんです。そういうリズム感は日常の中で養われるもので、例えば普段から料理を作って、トントントンと包丁で野菜を切るみたいな事をした方がいいんだと。

そうすると、それを聞いた人が、ピアニストを目指している若者が、料理なんてして指を切ったら大変だから、させられない、あなたは自分の子どもじゃないからそんなアドバイスをしてるんじゃ?と反論します。

でも、母親は 毅然として 「うちの麻子はシチューが得意です」と答える。

そのシーンがとても印象的で大好きでした。

えっと、何が言いたかったのか。

つまり食って根源的なもので、そのためには外食するのもありですが、僕の場合は「日常」としてこなしていく、それは自分で作って食べる、という事でした。

自分が日々作って食べるものは、凝った料理とか、珍しい食材とかではなく、ちょっと冷蔵庫の奥で眠っていた先週買って忘れていた豚バラのパックをどうするかというところから始まります。

それを淡々とこなしていく事が、生きるリズムであり、日常であり、生きる基本なんじゃないかなと。

日々、泣けてきたり、怒ってみたり、大笑いしたり、ありますが、どれもその淡々とした日常にとっては、一旦それを忘れないと指を切ってしまう。

なんか、強制的なリセットボタン、それが食事を作るという事のように感じてやってました。だから、結婚しても続けてきたのだと思います。

麻子の母親のような、誰か別の人に「得意料理は○○です」と言ってもらえる域にはまだまだ達していませんが。